「ひるぜん塩釜キャンピングヴィレッジ」オープン!

両備グループ
代表兼CEO 小嶋光信

猛暑の中、「日本一災害の少ない安心・安全な岡山」を襲った水害で亡くなられた被災者の霊を弔うために皆さんで黙祷し、これらの災害の復興とともに、地域の発展を誓い合い、「ひるぜん塩釜キャンピングヴィレッジ」のオープンをしました。

戦後の岡山県の発展を語る時、三木行治元知事の水島工業団地の開発が有名ですが、一方で蒜山の観光開発も忘れてはなりません。三木元知事の提唱で「西の軽井沢」を目指そうと岡山県の産業界がこぞって蒜山の観光開発に協力をしました。

両備グループは、旭川の源流が湧き出る塩釜の、名水の地に約1万3千坪の土地を取得して昭和42年にスキー場としてオープンしました。翌年には木造の洒落た塩釜ロッジがオープンンして家族連れのスキーヤーで賑わいを見せていました。当時は蒜山も雪が多く、ロッジ脇の小さなスキー場でロープにつかまるリフトが一基だけでしたが、小さな子ども達にとってはワクワク、ドキドキするスキー場で、私も何度か子ども連れで滑ったことがありました。

昭和47年からは新入社員の宿泊研修の場として使われるようになり、多くの両備マン、両備ウーマンが育った思い出の地になっています。

昭和52年には、木調家から石彫家に転じ20キロの削岩機を操り「万成(まんなり)石男」と異名をとる石彫の奇才、寺田武弘さんの1千トンの万成石の彫刻群と蒜山三座を見渡せる石彫公園「万成平」が完成しましした。この巨石の彫刻群の公園は、日本一、否世界一と言っても良いほど素晴らしい、二度とできないものだと自負しています。

しかし、バブルの崩壊で、レジャー産業の停滞とともに蒜山一帯も訪れる人が少なくなり、ご多分に漏れず塩釜ロッジも人影がまばらとなり、スキー場も閉鎖されましたが、細々と施設を守るためにレストランとして塩釜ロッジの営業は続けていました。今でも名残のバスツアーとして毎年秋に開催する「蒜山ウォークフェスティバル」だけは結構賑わって続いています。

私が両備グループの代表になった平成11年は、まさにバス事業も衰退を続け、規制緩和で将来は見えないという時期で、既にコストセンターになっていたこの塩釜ロッジを含めた赤字施設の閉鎖が決まっていました。

地域の伝統的な古民家が朽ちてしまう恐れがあるということで地域の要望で移築され復元されていた古民家2棟も、水車小屋もご多分に漏れず解体寸前でした。

そんな時、旧川上村の村長から「両備ある限り塩釜の施設は残す」という約束だったではないかとの厳しい要請がありました。過去に遡って調べてみても書付があるわけでもなし、事情は良く分かりませんでしたが、先輩たちが約束したことは守ろうということで施設を残す検討を始めました。

残す決め手になったのは、村長の要請とともに、新入社員の頃に宿泊研修を蒜山で経験した社員たちからの「思い出を残してほしい」という熱烈な声でした。

そこで、残す以上は地域に愛され、人の賑わいを取り戻そうと、トイレを綺麗にし、パターゴルフ場を設置したり、茶店開設や古民家で宿泊を受け入れるなど、活性化に努めました。一方、折からのオートキャンプ場の整備を検討していましたが、地盤が悪く、なかなかこれと言う決め手も無く日々が過ぎていきました。

ここで一念発起、真庭地域の生き残りのための活性化の一助として再び「西の軽井沢」を目指してトライアルをしようと、松田敏之副社長をリーダーに「西日本一のキャンプ場を創ろう」と企画しました。

今回のキャンピングヴィレッジは、全国で4番目、中四国・関西地方で初めてのツリーテント型のグランピングスタイル3区画、ドームテントグランピングスタイル6区画、ドームテントセルフスタイル7区画、オートキャンプスタイル6区画、フリーキャンプスタイル30区画の5種類のキャンプスタイルが楽しめる施設です。塩釜ロッジもリニューアルされ山小屋風のしゃれたレストランに様変わりしています。

雄大な蒜山三座の麓で木々に囲まれた自然豊かな地に、石彫群が独特の景観と旭川源流の湧き水である塩釜の冷泉に恵まれた新しい名所ができました。

秋には子ども達も遊べる施設も充実して、通年型の施設を目指していきたいと思っています。

我われの試みが蒜山の魅力を創り、再び蒜山に目を向けていただくきっかけとなり、真庭地域発展のささやかな起爆剤になってくれれば幸いです。

塩釜の冷泉を氷にした「ブルーベリーかき氷」は本当に絶品で、暑さが吹き飛びました。皆さんも是非お試しください。

両備グループ