岡山電気軌道
社長 小嶋光信
開業以来の念願であった京橋が1923年に拡幅されたことにより、100年前の同年7月9日に「おかでん東山線(旧旭東線)」が開通し、12時45分に1番電車が颯爽と走り出しました。
江戸時代が終わり明治になると、京橋から汽船が就航し、またこの地域に第六高等学校や山陽学園などが開校されて文教地区になっていったことなどで、城下町から京橋経由で山陽道がのびて旧西大寺市へとつながる東山地域が大いに栄えていきました。
そして、東山線の東山電停(現在の東山・おかでんチャギントンミュージアム駅)周辺には、玉井宮の参道に偕楽園や動物園、東山温泉もあって、子どもだけでなく家族ぐるみで楽しめるちょっとした人気スポットでした。また当時は、電車を動かす電気も自社で発電していて、その余った電気を使用した映画館もありました。
ところが、昭和40年(1965年)代のモータリゼーションの進展で、自動車の通行の邪魔になるという世間の風潮から、岡電でも役員会で路面電車を廃止する決議をしようとしましたが、当時の社長の松田壮三郎さんが「将来、岡山市には必ず電車が必要になる時代が来る」と一人で廃止に反対し、残念ながら番町線は昭和43年(1968年)に廃止されましたが、危機一髪で東山線と清輝橋線の2路線が残ることになりました。当時の風潮に流されず信念を貫き通した松田壮三郎さんの姿勢に感謝です。
この100周年の開通記念日は、前日から西日本に線状降水帯が発生し、深夜にはピカ、ピカ、ドーンと雷さんの鳴り物入りで、当日も朝から雨模様で「NPO法人 公共の交通ラクダ」主催のイベントは中止になりましたが、一部、東山の岡電本社で記念切符やグッズの販売をはじめ岡山市中心部の電車のジオラマ展示がありました。
松田壮三郎さんの予言通り、マイカーに押され続けて利用客が激減し瀕死の公共交通も、ここにきてカーボンニュートラルなど環境に優しく市民の健康にも良い鉄道や軌道、バスなどの公共交通が見直され、今回の日本でのG7都市大臣会合で公共交通を軸に街の再編をしようという声明が発表されるなど、公共交通によるまちづくりへ向けて世界が動きはじめ、復権の兆しが強くなってきました。
両備グループでは、2000年代初頭から公共交通利用で「歩いて楽しいまちづくり」を標榜し、2002年には岡電がLRT「MOMO」を水戸岡デザインで導入し、2004年には郊外へスプロール化した岡山市の中心部・柳川のロータリーに108mの高級マンション「グレースタワー」を建設するなど、全国に先駆けて岡山市で市内中心部居住の提案をし、今日の「コンパクトとネットワーク」という国の施策の先鞭を果たすことができました。
100周年記念号の出発式は、予定通り開業日当時の始発12時45分に俳優の八名信夫さんや三勲学区連合町内会の成田会長はじめ多くの皆さんが見守る中でテープカットをし、無事に出発しました。
八名信夫さんは、皆さんご存知の岡山市出身の映画俳優で「悪役商会」などで有名ですが、ある時、撮影で岡電を使ってのシーンを撮ってくださったこともあり、広報担当の役員が東山線100周年の話をしたところ、快く「友情出演」してくださることになりました。
八名さんは岡山東商業高等学校の出身で、当時、野球部で通学や練習に岡電で通っていたこともあり、有難いことに殊の外、岡電への思いを強く持っておられました。
「おかでん東山線100周年記念号」では、RACDAの岡さんが内田百閒に扮して、八名さんとの掛け合いトークが実施されましたが、八名さんの青春の思い出は「電車に乗ると山陽学園の女子高生と一緒になるのが嬉しかった」「当時、東校の野球部員は女子高生に人気で、みんな毎日何枚ラブレターを貰ったか自慢し合ったものだ」という甘酸っぱい青春の思い出や、大手饅頭の本社前を通ると「当時このお饅頭は高級品で、若者は匂いだけしか嗅げなかった」とエピソードを披露してくれました。八名さんの岡電への思いと岡山の素晴らしさを全国に発信しようという強い思いに心を打たれました。
お蔭様で本当に素晴らしい「おかでん東山線の100周年」となり、関係者・社員とともに「ネクスト100年」を誓いました。