百間川「二の荒手」改築工事 完成!
― 全国初の土木工事、文化遺産と環境保護の好事例 ―

岡山藩郡代 津田永忠顕彰会
会長 小嶋光信

我々、津田永忠顕彰会が百間川の改修などの計画に参画するようになったのは、顕彰会の名誉会長だった故・由比濱岡大名誉教授が百間川沿いの地区にお住まいだったことからです。

由比濱さんが、地域の百間川の改修に際して、荒手などの江戸時代の土木遺産や環境を守る住民運動にも参画されていたことから、顕彰会も設立当初の1997年頃から関わっています。

当時は吉野川などの河口堰の設置をめぐり、自然や環境保護などを求める住民と国との間で「防災か、自然・環境保護か」という社会的トラブルが頻発していた時代で、この岡山市の百間川分流部の改修でも、荒手や自然を守ろうとする住民と洪水から地域を守ろうという国との間で意見の相異が発生し、険悪になる懸念がありました。

顕彰会に対して、住民の皆さんもこれらの解決に向けて熱き目を向けられていたし、当時の河川事務所長さんや幹部方も顕彰会の会合にいつも参加されて解決の糸口を模索されていたという経緯もあり、何時とはなしに住民の皆さんと岡山河川事務所との橋渡し役みたいな位置づけとなりました。

我々が顕彰している津田永忠さんは、陽明学に心酔し、「知行合一」、即ち、良いと思うことを実践してきた江戸時代初期・備前岡山藩の土木巧者の英傑で、「これか、あれか」という二者択一でなく、「これも、あれも」という一石二鳥、三鳥を考えるのが得意であったことを永忠さんの顕彰を通じて学びました。

ならば、我々も「防災か、環境や文化財保護か」ではなく、「防災も、環境や文化財保護も」というスタンスで住民の皆さんや河川事務所の皆さんにお話をしていきました。

そのうち、住民も河川事務所の皆さんも共に、荒手も保存し、環境も大事にしつつ、防災も図ろうという機運になり、百間川の河口堰の改修も円満に行われ、記念に津田永忠さんが残した唐樋の一部の復元も果たすことができました。

この百間川は、約330年前に津田永忠の差配で造られた、旭川を分流するための放水路の役割をもつ人工河川です。

実は、備前岡山藩の第二代藩主・池田綱政公の要請で藩財政の再建を果たした永忠さんの次なる目標は、領民の暮らしをもっと豊かにすることでした。

そのために、旭川と吉井川に囲まれた約1,900町歩の干拓を計画しましたが、学問の師でもある陽明学者・熊沢蕃山に阻まれて、困った綱政公は時間稼ぎに後楽園の作庭を命じました。当時、大名庭園を作るのは10年以上の月日がかかっていたので、きっとそのうち永忠さんも新田干拓を諦めるだろうと思ったのかもしれません。

ですが、ここが津田永忠さんの真骨頂で、旭川の中州に後楽園を造ると、大水の際、岡山城下町と上道郡などに洪水の被害が起こる恐れがあるため、その解決策として百間川を分流河川として造り、洪水から守ることを考えたのです。また、後々、沖新田を造るためにもこの百間川の開削が必須だったのです。ここでも「後楽園も、沖新田も」という一石二鳥が活きているのです。

造園開始数年という、信じられない早さで後楽園を完成させ、熊沢蕃山の諫言も論破し、百間川の工事が始まりました。また、この分流部の工夫が「荒手」という越流堤で、大水の際に京橋の雁木の一定の高さを超えると、まず、水が一の荒手を越流し、激流の大きな石などを落とし、次に、二の荒手で中位以下の石を落として、最後に三の荒手を超えると整流となって洪水から地域を守るという優れものの、現在も活き続けている土木遺産です。

現在では「想定外」の大きな自然災害が全国各地で起きていますが、永忠さんは更に、この自然の恐怖の「想定外」も想定していて、自然に逆らうのではなく、亀の甲のように丸く作られた越流堤が激流を優しく越流させて堤を守るだけではなく、想定外の大水の際には、かえって障害物になる荒手が壊れて流れをスムーズにするように工夫されていました。

万が一の洪水の被害を最小限にするために、復興費用が莫大な城下町を避け、上道郡の農地や野原に洪水が流れ込むようにして災害を最小にし、当時の農民も万が一に備えていましたし、被害を藩が救済する仕組みもできていたようです。

まさに仁政の象徴ともいえるこの荒手を、二の荒手では、約半分を現状保存し、約半分を当時の石を使い目立たぬようにコンクリートで強化し、防災も土木遺産保護も両立させてくれた河川事務所の皆さんの英知と努力に感謝です。

その上、荒手の改築と共に植物や昆虫、小魚の宝庫である百間川二の荒手の「オニバス」も大事に元の位置に戻してくれました。

これらはまさに「平成の仁政」と言っても良い、全国で初めての土木工事と言え、住民と行政の心の一致した快挙です。

一の荒手では、更にほぼ現状を保存する研究をしっかりして下さっており、この永忠さんの歴史的遺産が、単なる遺産ではなく現在も活きる越流堤として地域で活き続けることになるでしょう。

そして、キッとその分流部の内側には、由比濱先生も念願とされていた「津田永忠記念親水公園」ができるだろう!と勝手に期待しています。

20170803-2

津田永忠顕彰会